空から命を救う――民間ヘリとドローンで切り拓く災害支援の新地平

レースの情熱から芽生えた「救う力」への渇望

北海道の大地を駆け抜けるオフロードバイクのエンジン音が、理事長竹田の原点だった。彼が取り組んでいたエンデューロというレースは、単なるスピードを競う競技ではない。もともとヨーロッパのレスキュー隊が二輪車の技術を競い合う場から派生したという歴史的背景を持ち、その精神には「困難な状況を乗り越え、人を助ける」という理念が根付いている。竹田はその精神を深く意識しながら競技に打ち込み、やがて相応の成績を収めるまでになっていた。

転機は突然訪れた。1993年、北海道南西沖地震が発生し、最大の被害を受けたのは離島の奥尻島だった。陸路での支援が物理的に不可能な孤立した島に対し、自衛隊は夜間の発災にもかかわらず、ヘリコプターで即座に現地入りし、夜明けを待たずして捜索・救難・復興活動を開始した。その圧倒的な初動の速さは、竹田の目に鮮烈に焼き付いた。今日に至るまで、あの時の自衛隊の動きは「極めて迅速だった」という印象として彼の記憶に刻まれている。

この経験が、竹田の人生を根底から変えた。レース用マシンとトランスポーターを売却し、仕事を辞め、ヘリコプターの操縦免許取得のために渡米を決意する。ところが、その準備を進めている最中の1995年1月、今度は阪神淡路大震災が西日本を襲った。自分にはまだ被災地で役立てる能力がないという冷静な自覚のもと、竹田は寄付という形で支援にとどまり、その春、予定通りアメリカへと旅立った。

米国での修業と9.11が変えた航空訓練の世界

1995年当時、ヘリコプターの操縦免許を取得するうえで最も効率的かつ経済的な選択肢は渡米することだった。竹田はアメリカで免許を取得したが、それだけでは被災地にヘリを飛ばせる実力には程遠いと判断し、さらに事業免許と操縦教官の資格を取得した。教官として飛びながらスキルを磨くという長期的な戦略のもと、彼はアメリカに留まり続けた。

訓練生を育てながら自らの技術を高める日々は順調に続いた。しかし2001年9月11日、同時多発テロが発生し、アメリカ国内のすべての空港が閉鎖され、航空機の飛行が全面禁止となった。操縦教官としての仕事は突然停止を余儀なくされ、1か月後に再開が認められたものの、テロ実行犯が小型機の訓練生だったという事実が厳しい制限を生んだ。特に海外からの訓練生へのビザ発給が停止されたことは、外国人訓練生を主に担当していた竹田にとって致命的だった。新規の訓練生を受け入れられなくなり、飛行の機会は徐々に失われていった。

2002年3月、最後の訓練生が免許試験に合格したのを見届けた竹田は帰国した。教官の仕事そのものへの愛着はあったが、そもそもの目的は災害支援であり、その道筋から外れていたという認識が、別れを惜しむ気持ちを上回った。帰国後の日本では、免許を持ちながらも飛ぶ機会に恵まれず、いわゆる「ペーパーパイロット」になってしまう人が少なくなかった。気象条件が厳しい日本では、たとえヘリを購入できる財力があっても、単独で自信を持って飛べるパイロットは多くない。そうした現状を踏まえ、竹田は帰国後、自家用パイロットたちと定期的に飛行の機会を設け、技術の底上げを図る活動を続けた。

制度の壁と政策提言――3.11前夜の静かな闘い

2004年の新潟中越地震の際、竹田の周囲には単独飛行が可能なレベルに達したパイロットも現れていた。しかし当時の環境では、民間の自家用ヘリが被災地支援に実際に動くことは極めて困難だった。ヘリの離着陸場は事前に許可申請が必要で、許可が下りるまでに約2週間を要する。加えて、被災地では自治体自体が混乱状態にあるため、ヘリが安全に降りられる場所を確保すること自体が難題だった。制度の壁が、善意と技術の前に立ちはだかっていた。

この状況を打開しようと、竹田は2010年5月、埼玉のNPO「市民キャビネット災害支援部会」を訪ねた。そこで出会った松尾氏との縁が、その後の展開を大きく動かすことになる。折しも、災害時の政策提言を議論するセミナーが開かれており、ヘリ活用の可能性について発言した。新潟中越地震で山古志村の村長を務めた長嶋氏も同席しており、自家用ヘリによる災害支援の現実性について率直な意見交換が行われた。長嶋氏によれば、当時の山古志村には自衛隊のヘリが常駐していたものの、実際にはほとんど使われなかったという。民間ヘリによる支援は理念としては歓迎されるが、現実の運用には多くの障壁があるという認識が共有された。

しかし松尾氏はここで動いた。この議論を政策提言に盛り込み、国土交通省の総合政策局の担当者へとつないだのだ。離着陸場の手続き簡素化を核とした提言は、国交省の担当者たちの理解を得て、法制化に向けた協議が始まった。約1年にわたる打ち合わせを重ね、年末から年明けにかけて実現の見通しが立ち、3月17日に政務官への報告という最終段階を迎えるはずだった。ところが、その6日前の2011年3月11日、東日本大震災が発生した。

3.11が証明した民間ヘリの可能性

政務官への報告予定はすべて棚上げとなった。しかし竹田は松尾氏を通じて、ここまで積み上げてきた成果だけは実現してほしいと訴えた。ヘリの離着陸場手続きの簡素化と高速道路の使用許可、この2点だけは動かしてほしいという要請に、国交省は応えた。3月12日から、電話連絡だけで離着陸の許可が下りる運用が始まった。これは、民間ヘリが正式な手続きの簡素化を経て災害支援に動いた、日本初のケースとなった。

支援活動が一段落すると、内閣府や国交省からの聞き取り調査が相次いだ。竹田と松尾氏は霞が関に足を運び、支援活動の実態や課題について証言した。この経験を踏まえ、次の段階へと歩みを進める。支援活動の中で、国交省の担当者から団体名称を求められたことがきっかけとなり、「市民航空災害支援センター」という名称が生まれた。そして翌年の春、この名称のままNPO法人として正式に設立され、現在に至る組織の礎が築かれた。

NPO設立後、力を入れたのは事前協定の整備だった。災害が起きてから動くのではなく、あらかじめ自治体や民間企業と協定を結び、離着陸場を事前申請しておくことで、発災直後の初動をスムーズにするという考え方だ。内閣府の担当者もこのアプローチを積極的に支持し、竹田たちは大槌町など各地の自治体と連携しながら、毎年防災訓練を実施する体制を整えていった。

ドローンとヘリの役割分担――能登半島が示した新たな地平

3.11から十数年が経過する中で、NPOに新たな技術が加わった。ドローンである。もともと林業用として開発された大型ドローンに、竹田は災害支援への応用可能性を見出し、いち早く導入した。林業用という分類ではあったが、その積載能力と飛行性能は物資搬送に十分対応できると判断してのことだった。この取り組みはメディアにも取り上げられ、ドローンの災害活用という概念が社会に広まるきっかけの一つとなった。

2024年の能登半島地震では、ヘリとドローンを組み合わせた支援が初めて本格的に展開された。道路が寸断され、孤立した集落への陸路が閉ざされる中、ドローンは約1トンの水を搬送するという実績を残した。一方でヘリは、支援団体のスタッフや自治体関係者の移動手段として機能した。3.11の教訓として、ヘリによる物資輸送はコストが膨大になるという問題があった。能登では、物資はドローンが担い、ヘリは人員輸送と情報収集に特化するという役割分担が自然と確立されていった。

この経験を通じて明確になったのは、ヘリとドローンはそれぞれの強みを活かして補完し合う関係にあるということだ。陸路が機能している場合、物資輸送は陸送のほうが効率的であり、ヘリの出番は限られる。しかし孤立地区への対応や、情報を持つ人員の迅速な移動には、ヘリの機動力が不可欠だ。3.11の時点ではまだ存在しなかったドローンが、今となっては「あの時あれば使えた場面がいくつもあった」と振り返るほど、災害支援の選択肢を広げている。

次世代へのバトン――空の救助を継ぐ者たちへ

NPO設立から十数年、竹田を含むメンバーたちの年齢は着実に上がっている。ドローンの操縦は若い世代が得意とする場合も多いが、ヘリの運用は別次元の話だ。被災地という過酷な環境で安全に飛ぶためには、長年にわたる経験と判断力が不可欠であり、一朝一夕に育てられるものではない。この現実が、竹田が今最も力を注ぐ課題となっている。

近年、竹田の周囲にはヘリの免許取得を希望する若い世代が少しずつ増えてきた。かつて自分がそうであったように、「空から人を助けたい」という志を持つ人間が現れ始めている。その芽を育て、技術と経験を次世代へと継承していくことが、NPOとしての今後の使命だと考えている。

北海道のレースコースから始まった一人の男の旅は、奥尻島の惨状への衝撃、アメリカでの修業、9.11という歴史的事件、そして3.11と能登半島という二つの大災害を経て、今も続いている。空から命を救うという理念は、ヘリからドローンへ、そして次世代のパイロットへと、形を変えながら受け継がれようとしている。民間の力が公的支援を補完し、制度の壁を乗り越えながら前進してきたこの歩みは、日本の災害対応の歴史に静かに、しかし確実に刻まれている。